あいさつ

東日本大震災が起こったあの日から、6年を迎えます

「子ども未来・愛ネットワーク」は2011年5月より
原発事故からの避難や保養の受け入れ支援などをしてきましたが
昨年は、福島県から岡山県に避難された方を取材し
「福島から岡山へ 原発事故から5年目のいま」の冊子に
おひとりおひとりの3.11を記させていただきました

その後、冊子を手にした方々から多くの反響をいただき
2016年度は、福島だけでなく関東から避難をしてきた方にもお話をうかがい
またご本人が記述された体験とあわせて
「3.11から岡山へ~ わたしが出会ったもの」というタイトルで
WEBページに記載することにしました

ここに載せられた記録は
2011年3月11日に起きた福島第一原子力発電所の事故による
目には見えない放射能汚染という現実の中で
「避難・移住」という大きな選択を決断し
悩んだり楽しんだりしながらも、それぞれに歩んで来られた足跡です

支援してくださる方や
これから避難移住を考えている方にも
ぜひ読んでいただけたらと思います

お話を聞かせてくださったみなさま
原稿を寄せてくださったみなさま
心を寄せてくださるみなさま
あらためまして、心からありがとうございました

子どもたちに明るい未来をつむいでいけますようにと、祈りをこめて

目次

あいさつ

何かうまくいく予感がしていた[東京]

笑いあえる未来へ[福島]

岡山で楽しく悔いなく生きる[千葉]

悩んだ末に岡山へ、今は後悔なし[神奈川]

戻れるなら帰りたいけど・・・[福島]

保養できるところを作ろう[関東]

和気暮らしをはじめるための応援ガイドがあったら[埼玉]

食をとおして暮らしを考える[福島]

毎日をゆっくり丁寧に[千葉]

確かなものは人とのつながり[福島]

地に足をつけた暮らしを和気町で[東京]

子どもが元気に暮らせる地はどこ?[群馬]

私にとっての311[東京]

闘病、移住、そして生活再建奮闘中[千葉]

遅すぎた避難[埼玉]

あれから5年を過ぎて[埼玉]

ただただ息子のために[東京]

スタッフからひとこと


■お願い■
☑ご意見、ご感想は、子ども未来・愛ネットワークまでメールでお寄せください。
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ただただ息子のために

【名前】Tさん(30代)
【同居の家族】夫,子ども(2)
【避難の経路】東京都葛飾区(震災時)→東京都町田市(2012.4)→岡山県総社市(2015.4)

§ 避難を決めた理由

放射能の不安のある場所で、子どもを育てられないと思ったから。

§ 自宅や川の汚染に不安

新婚だった2011年の夏、放射能研究機関に勤める友人から、葛飾区がホットスポットであることを聞いた。 線量計で自宅を計ってもらったところ、窓の近くの畳から高い数値が出た。 その友人は妻子を九州に逃がしており、私たちにも「動けるなら、動いたほうがいい」と勧めてくれた。 夫の実家は町田市にあり、ちょうど空いていたので引越すことにした。 緑豊かで川や畑があり、少し歩けば山登りもできる、子育てには理想的な環境だった。

しかし、妊娠すると、放射能に対する不安がじわじわと増していった。 夫は植物を扱う仕事のため、砂や泥のついた作業着のまま帰宅する。 「作業着はお風呂で脱いで!」とヒステリックに言う私と、危機感のない夫の間で、けんかになることが頻繁にあった。 息子が生後6カ月の春、総社市を見に行ったりもした。

夏になると、近所の子どもたちが家の前の川で泥かきをしながら遊んでいる姿が目についた。 不安になって調べたところ、川底の土が放射能汚染されているとの検査結果を目にしてしまった。 「息子が成長したら、川で遊びたがるんだろうな....・・・」 「果たしてここで子育てなんてできるのか?」

§ 移住後は息子と2人きり

運の良いことに、夫は「日本国内なら住む場所にこだわらない」という人で、手に職もある。 偶然、仕事の契約切れも重なり、翌年の春に移住が実現した。 親子3人で心機一転、新しい生活を始めた。

ところが、移住して1カ月たった時、夫は突然、「仕事の勉強のため岐阜に行きたい」と言い出し、まだ部屋にダンボールが積まれたままの2カ月目から半年もの間、岐阜県に行ってしまった。それまでの仕事は体力勝負、いつまで続けられるか不安があったのだと思う。とはいえ、新しい土地で、まだ幼い息子と2人きりの生活。遠出することもできない日々が続いた。

夫は色々なアルバイトを経て、自営で元の仕事に落ち着いた。 今では生活にも慣れ、家族で倉敷や蒜山などに出かけることも多く、岡山ライフを満喫している。

§ 習慣や人間関係の違いに驚く

同じ日本に住み、同じ言葉を話す人間でありながら、地域によってこんなにも習慣や人との関係性に違いがあることに驚いた。
地域には自分の親と同世代の人が多く、当時1歳だった息子を、たくさんの方が自分の孫のようにかわいがってくれた。 特によくしてくださる方がいて、親しく行き来していたところ、嫉妬なのだろうか、関係をよく思わない人にあらぬ噂を立てられてしまった。また、昔からの常識とか地域の人の力関係など、最初の1年は戸惑いと試行錯誤の年となった。

特に驚いたのは、人間関係が密であること。 車の有無や消灯時間から、いつ出かけていたかとか、寝た時間やお風呂に入った時間まで近所の人に知られてしまう。 高齢者が多いので、無事を確認する目的もあるのだろうと思うし、ありがたい側面もあるが...。
引越した頃はまだ授乳期だったので戸惑ったが、見られたくない時はカーテンをして窓の鍵を閉めるなど、注意するようにした。 今も時々、近所の人が息子が入浴中だと気づいて、外から「おーい」と声をかけてくれることがあるが、私も入浴中であることがバレていると思うと、何か答えるわけにもいかず、恥ずかしい気分になる。

§ 毎日の生活を大切に

放射能のこと、両親の説得、移住先はどこにするか、夫の仕事のこと、新しい土地での人間関係や習慣になじむことなど、ここ数年考えることがあまりに多すぎた。 息子は来春、幼稚園に入園するが、それまでの間、子どものことだけを考え、毎日の生活を大切に過ごしたい。ただただ、息子のためにここに来たのだから。

§ 息子と成長していく幸せ

震災前は、長野県の安曇野に移住し、シュタイナー教育で子育てをしようと計画していた。 だから田舎に住む覚悟をして移住したのだが、総社は街が整備されていて、想像よりずっと都会だった。 少し車を走らせれば、何でも手に入る。私自身はもっと不便でもやっていけると思っている。

最初の頃は、家にネズミが出ることもあり、ムカデが水の中を泳ぐ姿にも驚いた。 東京にずっと住んでいたら、自分が自然の中で生きていることに気がつかないまま死んでいって、もったいなかったなと思う。 虫⇒カエル⇒ヘビ⇒ネコといった自然の循環が繰り広げられる環境から、息子はたくさんのことを勉強するのだろう。 そして、東京出身の私も、息子と一緒に多くのことを学び、成長していけることに、とてもワクワクしている。

(2016.10.14 木島・宮岡)
 

あれから5年を過ぎて

【名前】 N.I(47)
【同居の家族】夫(59),娘(18,16),犬
【3.11後の避難の経緯】埼玉県富士見市(震災時)→岡山市(2016.2)→同市で転居

§ 避難を決めた理由

健康上の心配、特に長女の体調不良。直下型地震の不安。

§ 情報収集に明け暮れる

3月11日は練馬の施設でマッサージの仕事をしていた。 大きな地震が何度か来たが、全ての仕事を終えてから帰途についた。 しかし、東武東上線が止まっていた。 家までは約16キロで、他の人たちと線路に沿って8キロくらい歩いたが、 この先は道が複雑で危険だからと言われ、朝霞警察署で家族が迎えに来るのを待たせてもらった。
昔働いていた病院では、無用にレントゲン室に近づかないようにと注意徹底され、 朝礼では頻繁にチェルノブイリの話題があがっていたので、放射能の危険性はよく知っていた。 福島原発の爆発がわかると、ツイッターなどで情報収集に明け暮れた。 視覚に障害があるが、スクリーンリーダー(画面読み上げソフト)で、検索もネットショッピングも自由にできる。

§ 体調不良で岡山へ

「子どもをここに置くのはヤバイ」と思ったが、夫は「おまえはおかしい。踊らされている。」と主張するので、避難をあきらめた。 「しょうがない、ここで気をつけて生活し、自分にできることをしていこう」と決め、盲導犬の「U」と共に、募金活動やデモなどにも積極的に参加した。
食べ物は、最初は近所の低農薬のものを食べていたが、西日本の食品が買える店を利用したり、安心なものを取り寄せるようになった。 さらに夫が市民測定所を設立したので、より安全なものを食べることができるようになった。
しかし、酷い頭痛はいっこうに収まらず、長女は心臓の痛みや体調不良があり、ヨーグルトしか食べられずにガリガリにやせ細り、体力も落ちてしまった。 夫婦で西日本への移住を考えはじめ、3度の下見を経て、まず夫と娘が2015年3月に岡山に引っ越すことになった。

§ 亡くなった盲導犬

はじめてのパートナー「U」はとても賢い犬で、私をとても強くしてくれた。 震災後は何度も募金活動やデモに行き、いつも一緒だった。 しかし、家族が引っ越しを終えた1週間後、体調が急変し、5人がかりの緊急手術を受けた。 実は他の盲導犬が何頭も早く亡くなっている。 ドッグフードは海外のものを食べさせていたが、犬の頭は低い位置にある。 もしかすると...。 9年半私のために働いてくれた彼女は、引退後たった38日で茨城県で息を引き取ることになった。 最後まで飼ってやればよかった。亡くなって1年以上たつが、まだ心の整理がついていない。
2代目の「D」は、私の所に来たころは、吸い込むような咳と、犬らしくないウサギのような糞をしていた。 しかし、2016年2月に岡山に引っ越してきてからは、咳もなくなり、糞も正常になった。

§ 結婚しないと言う娘

一方私は、原因不明の痛みや貧血で通院している。春には救急で市民病院にお世話になった。 体調不良により、体重が20キロ減り体力が落ちてしまった。
長女は「自分の身体は傷ついてしまった。もう結婚はしない。」と話している。 小さいころからとても敏感で、えっと思うような本質的なことを言う子なので、ごまかしはきかない。 今は「彼女はそう考えているのだ」ということを、ただ受け入れるしかない。

§ 優しい岡山の人たち

岡山の人は優しい。声をかけるとすぐに止まってくれるし、犬を連れていて入店拒否にあったことがない。
歩いていて困るのは、車が人間のすぐそばを通ることと、アイランド型の交差点。方向がわからなくなってしまう。 もし白杖や、盲導犬などを見かけたら、離れて通って欲しい。

(2016.12.8 木島・仙田)
                                 

遅すぎた避難

【名前】アンパンマン(59)
【同居の家族】妻(47),娘(18,16),犬
【3.11後の避難の経緯】埼玉県富士見市(震災時)→岡山市(2015.3)→同市で転居

§ 避難を決めた理由

健康上の心配、特に子どもの体調不良。福島原発が今後どうなるかわからないこと。首都圏直下型地震の不安。

§ 通学路が汚染

妻は原発の爆発直後から、Twitterやネット検索で放射能について調べ、危険だと言っていたが、私は「大したことないんじゃないか」と思っていた。 広島平和記念資料館で焼け焦げた広島の様子は知っていたが、放射性物質が埼玉まで届くとは思っていなかった。
しかし、妻が頻繁に酷い頭痛を起こすようになったため、信頼性の高い線量計Radi (堀場製作所製)を購入した。 爆発から5か月近く経っているというのに、子どもの通学路を測ったら、地上10センチで0.3マイクロもあり、危機感を持った。 逃げたいが、ローンなど経済的な理由もあり難しい。
「自分で測って、放射性物質をできる限り避けるしかないのか? 他の子たちも具合が悪くなっていくのか?」と不安に思った。

§ 浄水器や測定器を自作

私は建築関係の仕事だったので、物作りのノウハウをもっている。 まずは、部品を買ってきてRO(逆浸透膜)浄水器を自作した。 2011年10月にできた柏市の「ベクミル」を見学をしたときには、「放射線測定器は、自分で作れるんじゃないか?」とピンときた。
食品等の放射線量は、鉛の容器で外部放射線を遮蔽して、検体の放射線を測る。 後日、ラディ用で食品などのベクレルを測れるキットが売られていたので、鉛の遮蔽容器を作り、ラディ用の簡易測定器を作製した。
「市民測定所を開設しようか?」と考えていたとき、運よく「測定所の開設を援助する」という話を聞き、2か月後の2012年7月に、「みんなの測定所・ふじみーる」をオープンした。

§ 妻と長女の体調が悪化

ある日、妻が「ここで寝ると体調が悪くなる」という部屋のカーテンを測定してみた。 風通しの良い2階の部屋だ。結果は1000ベクレル超え。 掃除機のゴミパックも、2012年8月の時点で、軽く1000や2000の数値が出た。 自宅から400mの場所にあるゴミ焼却場は、震災のガレキは受け入れていない。 とすると、一般ゴミから、かなりの放射能が出ているということになる。
そうこうするうち、妻だけでなく、長女も体調を崩して学校に行けなくなった。 「心臓が痛い・喉が変・息が出来ない」というが、検査しても原因不明だ。 夜になると体調が悪くなり、夜間救急車を呼んだこともあった。 1年間は、ヨーグルトしか食べることができず、やせ細ってしまった。
「やはりここに住み続けることはできない」と思い、原発から遠く、避難者の多い岡山を移住先に定めた。
家族で3度目に下見をしたとき、庭の広いとても良い家に出会った。 大家さんもとても親切で、目の不自由な妻のためにトイレの改修まで申し出てくれた。

§ ついに岡山へ

2015年3月に、まずは私と娘2人で引越し、後に妻も合流した。 「みんなの測定所・ふじみーる」も、名称はそのままで、富士見市から岡山に移転した。 現在は中古住宅を購入し、自分で改修しながら生活している。
岡山は、気候が良くて、放射能の心配がないのがよい。 ただ、伊方などの原発もあるので、いつまで安全にいられるのかという不安はある。 そのときはどうするのかわからない。
子どもたちの健康や未来が一番大切だ。 生物としての寿命を全うしてほしい。 放射能や戦争など、他の要因で命が脅かされるのは耐えきれない。

HP みんなの測定所ふじみーる

(2016.12.8 木島・仙田)

闘病・移住・そして生活再建奮闘中

【名前】橋本志子(47)
【同居している家族】ひとり暮らし
【3.11後の避難の経緯】千葉県松戸市→岡山市(2014.3)

§ 避難を決めた理由

心細さや不安。住んでいた団地に、福島からの一次避難の方がおられ、(千葉に住む私たちが)放射能の話をすることや、不安等、団地内で言えない雰囲気でした。
避難先は、一度でも住んだことがあること、地震・放射能・仕事・病院を考えて、岡山に決めました。看護学生時代に住んだことがあり、持病の治療をできる病院もあります。

§ これまでをふりかえって(震災前)

医療技術を身につけ、JICA(国際協力機構)で海外で働くのが夢でした。 岡山の准看学校を卒業して医療の世界へ。 しかし、姫路循環器病センターで看護婦をしていた24才の時、自分がバセドウ病と肝機能障害を発症しました。
自分が看護を受ける側になって、医療における人間対人間の関係の必要性を感じたものの、資格ごとに法律や制度的な制限があるために、その後に養護教諭の資格を取得、目標であった助産師と保健師の学校に入学するため受検勉強を続けました。 実習や勤務、予備校などの関係で、中国から関東の間を10回転居。東京で非常勤の養護教諭として働いていた30才のとき、バセドウ病が再発しました。

内服治療していましたがホルモン値が安定せず、31才の時静養のため実家へ戻りました。 兵庫の病院へは交通の便が悪く、医療方針も違っていました。 そのため、実家に戻っても、姫路からの深夜バスに乗って、渋谷の伊藤病院と眼科の原宿オリンピア病院にかかり続けました。
実家で過ごした約10年は大変な出来事の連続でした。

まず、父がスキルス胃癌ステージⅣで入院し、約2年の癌闘病ののち看取りました。
35才の時、「バセドウ病」を再発しました。唯一の選択肢はアイソトープ治療。 その後、甲状腺中毒を起こし、生死をさ迷いました。更に、「バセドウ眼症」も発症し、失明の危機に。 リニアック(放射線)治療を受けました。バセドウは甲状腺の病気ですが、全国的に甲状腺専門医と専門医療機関はとても少ない。甲状腺専門眼科も少なく、リニアックをオーダーできる専門医はわずかです。また、病院により治療法や治療方針に違いがあるため、望む治療法を受けられる病院は極めて少ないというのが日本の実情です。
40才の時に母が骨髄異形性症候群で緊急入院、白血病に急性転化しました。血液内科のある病院に転院したくとも、緊急入院でないと紹介状を書いてもらえないなど多くの苦労を味わいました。翌年母が亡くなり、母の葬儀や永代供養、遺品整理などの全てを1人で行い、心身ともに疲弊。 母の死から3か月後の2010年9月、伊藤病院に通うため千葉県松戸市に転居しました。

§ これまでをふりかえって(震災後)

松戸で体調を整え、生活を立ち上げるつもりでいましたが、全く落ち着けない中で迎えた大震災。続く余震や計画停電、スーパーから品物がなくなる様子に怯え、部屋も余震に備え床に平置きした本などの、散らかった感がしんどかったです。
松戸はホットスポットでした。隣接する金町浄水場から放射能が検出されたと報道され、 団地内の北西部や近くの公園の水たまりや道の側溝からも放射能が検出されました。
4月、息苦しくなり、血圧・脈拍とも異常値となり、救急車を呼ぶ事態に。どかに引っ越したかったが、不眠症の改善や体力をつけることが優先でした。

 2013年7月、40℃の発熱、口内炎8コ、動けない。脈もおかしい。血圧が明らかに異常。循環器内科で、僧帽弁閉鎖不全症(心臓弁の疾患)との診断。自分にとって一番理想的な手術ができる病院を探したところ、関東では大学病院と府中の榊原病院のみだということがわかりました。
以前から岡山の循環器医療の榊原病院を知っていたので、岡山市の移住定住支援室から冊子を送ってもらうと、関東からの移住者が多いということがわかりました。何より、岡山には昔住んだことがある。
父母が病気になってからの一連のことと、自分の病気でエネルギーを消耗していて、長い時間がかかりましたが、311から3年後に岡山に移住しました。
私の松戸での暮らしは、孤独で、こわくて、しんどくて、嫌な生活。一人で生きていく覚悟を明確にさせられた場所でした。

§ 病気を抱えながら1人で生活を立ち上げる困難さ

岡山に移住したものの、病気を抱えながら1人暮らしは苦難の連続です。
借家だった実家を片付け、お墓も永代供養をしてもらったので、帰る場所がありません。母の死後、頼れる親戚もなくなりました。働けなくなれば即生活保護になってしまいます。

行政や福祉、様々な支援(生活困窮者支援や就労支援など)にずいぶんお世話になりましたが、不安や辛い気持ちに寄り添ってくれるような支援というのはなかなか受けられない。「自分の身は自分で守るしかないのだ。」と実感しています。
日々の生活費の心配や孤立感がぬぐえず、精神的に追い込まれることも多かった。 何のために生きているのか?居なくても大丈夫な存在なんだろうか? 人との心の通った関わりや、生きる希望~誰かの役に立てているという感覚~が欲しい。
「ここで老後を」という覚悟。どこで死ぬ?誰に看取られる?誰かに委ねるという覚悟も一歩ずつ。 やっと、ちょっと肩の力が抜けて、どうにかなるかも?と思えるようになってきました。

§ だから私は看護の仕事に戻った

支援の方からは、職探しにあたり、「(看護の)資格を生かさなくてもいいのではないか?」 と言われることもありました。
しかし、私は看護、福祉を提供する側から受ける側になり、患者さんの苦しみや患者家族の大変さ、看護師を求めていること、医療難民の現状などを目の当たりにしてきました。
また、「この一年、振り返れば、痒い所に手が届く、気配り心配り。これ以上の介護はないと思うほど、一生懸命してくれた。悔いは残るかもしれないけれど、十分以上の幸せをもらったから、これ以上は望みません」という母の最期の手紙も支えになっています。
だからこそ、岡山で看護の仕事に戻りました。
ブランクに加え、「短時間勤務から始める」という難しい条件のため、職場探しは大変でした。 バセドウ病で体力的に週4日のパートが精一杯であることが理解してもらえず、やむなく辞めた診療所もありましたが、今いい職場で働かせていただけているので、努力をしていかないといけないなと思っています。

§ いま大切にしていること

今は、その時その時で「今、やること。やるべきこと」をひとつ1つ、課題をみつけて取り組んでいます。そして、マイペースを探しています。

10年後、5年後に「あーなっていたい。」をあまり考えないで、1か月後にも同じように、寝込まないで、たおれないで、生活し、仕事に行け、少し遊びにも行けるように、一日一日を生きる。明日も、今日と同じように生活できるように、今日を生 きるように!!
■少しだけ、父、母が生活の中で大切にしていたことや物がわかるようになり、少しだけ丁寧に生きる。食事も、少しだけ丁寧に「だし」をとることやお茶を淹れる。おそうじも丁寧に!!人との関わりも・・・。
■四季を感じること
■ウソをつかないこと
■感謝すること
■みかえりをもとめない

§ 災害を通して気付いたこと

 (15才で山崎地震。16才でチェルノブイリ。26才で阪神淡路大震災。)
阪神淡路大震災では、ボランティアやPTSDのこと、クラッシュ症候群やトリアージ等多くを学びました。 TV報道と実際に見聞きする情報に大きな隔たりがあることに気づき、報道のこわさと、信じられないナという思い。 視野を広くもつことのしんどさ。
子ども未来さんや東山つながりキッチンなど、人とのつながりを感じられることのうれしさ。 ひとつひとつの出会いやつながりが貴重で、交流がかけがえのないもの。コミュニティの大切さ。

§ 岡山はいかがですか?

19、20才の頃、岡山弁がキライでこわかったです。 今回、岡山弁はあまり耳にしなくて、耳障りではないです。
平地なので、自転車生活でも住みやすいし、自転車で受診できる医療機関があるというのは、とても安心感があります。

(2016.12.23 木島・宮岡)
  

私にとっての311

【名前】TMさん(43)
【同居の家族】夫(43),息子(5)
【3.11後の避難の経緯】東京都→岡山に下見(2012.4)→岡山に移住(2012.5)

§ きっかけは母の言葉

震災の時、住まいは新宿区、祖母が所有する古いアパート。 ちょうど妊娠12週に入ったところだった。 大きな被害もなく、その後も震災前と何も変わらない生活が続いた。 夫も自分も仕事が忙しく、仕事以外のことは考える余裕がなかった。 出産後も子どもを預けて働き続けるつもりでいた。
同年11月に息子を出産、産休を取り千葉の実家で放射能を気にしながら日々過ごした。 野菜の産地にこだわりスーパーのハシゴをしたり、遠方から取り寄せたり、ベビーカーの車輪につく泥を気にしたり・・・。 気にすることに疲れてきて、これはやってられない、と思っていた矢先の2012年2月に、母がシニア大学で原発事故後の放射能についての話を聞く機会があった。
その帰宅後「そんなに心配だったらここから離れることも考えたら?」と母から言われ、その時点から、子どもの安全を考えて移住という選択もありかもしれないと考え始めた。4月からは仕事に復帰の予定でいたし、夫が設計した家を建てる計画も進んでいたところだった。

§ 母子だけでも移住する覚悟で

急遽、会社に移住したいことを話し、辞表を出した。 幸い、社長が理解のある人で、「子どものことを考えたら当然のこと」と、背中を押してくれた。 家の新築計画も、夫は周りの人に頼んではいたが、契約などはしていなかったので、大きな損失もないまま、とりやめることができた。
夫は当初移住には反対だったが、夫が行かなくても母子だけで移住をするという自分の決意に最終的に折れてくれた。 夫の友人の奥さんがその時すでに京都に避難していたことも夫が納得した理由の一つになったのではないか。 「おかしい」と思っているのは自分たちだけではないと思えた。
移住先は、沖縄などではなく、できれば陸続きがいいと思った。 夫が「倉敷なら行ってもいい」と言うので、4月に1週間、岡山に下見に来た。 倉敷で物件を探したが、街中は都会と変わらない印象で、せっかくならもう少し自然の中で子育てをしたいと思い、総社に足を伸ばすことにした。
総社で一つ目の物件を見て、そこに決めた。それが岡山に下見に来て1日目。 二日目には夫はハローワークに足を運び、情報収集をした。 その後、転職紹介サイトで夫が希望する設計の職を見つけ、夫は日帰りで岡山まで面接に来て就職先が決まった。

§ 心の準備もないまま新しい暮らしが始まる

総社で生活を始めたのは5月末。 とにかく関東から逃げたいという勢いで移住したので、心の準備もないまま新しい暮らしが始まった。
実家の手助けもない、知る人もいない中、思い通りにいかない初めての育児、右も左も分からない初めての場所・・・移住を始めてからがしんどかった。目の前の仕事をこなすのが精一杯の毎日だった東京での暮らしから一変、心にぽっかりと大きな穴が空いたような気がした。
慣れない場所で、一日中幼いわが子と二人っきりで過ごすことが段々苦しくなり、イライラした気持ちが抑えきれなくなり、総社市の子ども課に助けを求めたこともあった。子どもを預かってくれる人もいなくて、運転免許証を取るために託児つきの教習所を求めて倉敷まで通ったこともあった。

§ 総社でのくらし

その後、市の子育て支援の人が親身になって助けてくれたり、移住者との出会いがあったり、子どもつながりで隣の人と親しくなったりしたことで救われたように思う。仕事をすることも考えたが、子どものことを思うとそれがいいのか分からず、未だ踏み切れていない。
1年半ほど前から「あそびのきち おひさま」の食堂で週に一度、「飯炊きおばさん」をしている。 0歳から6年生までの子どもたち40人分(夏休みは80人分!)の食事を作ることが、やりがいを感じるし、とても楽しい。 届いた野菜を見て、その日のメニューを決め、時間通りに人数分を作る。できるだけ旬の野菜を食べてもらえるように工夫をしている。
夫は、朝6時半に出て終電で帰宅の毎日、土曜も出勤している。 夫の身体が心配だが、彼が好きな設計の仕事にも就け、やりがいがあって充実しているように見える。
移住前から家を建てる心積もりをしていたので、総社に2年住んで、この地に家を建てることに決めた。 リビングは2階にしたいとか、家事動線を夫に伝え、夫が時間をかけて設計し、2014年12月に完成した。
リビングから遠くの山が見渡せ、自然がいっぱいの景色が見えるのがとても気持ちがいい。 東京に家を建てていたら庭もないし、窓からこんな景色を見ることも無理だったと思う。

§ 今 大切にしていること

子どもを持つ前は、添加物や農薬なども全く気にしていなかったが、子どもがアトピーなので、食べる物に関しては気を使っている。 かといって、過保護になり過ぎず、自然に多く触れさせたいと思っている。 毎日の生活を大切にしている、と言うとかっこよすぎる気がするが、自分がイライラしなくて済む、穏やかな気持ちで育児ができればと思っている。子どものためにも自分のためにも、がんばりすぎない子育てをしたい。

§ 気がついたこと学んだこと

離れて暮らすようになって、母のありがたさを思い知った。 また、政治や自分の環境に何が起こっているのか興味を持って、今はできていないけど、積極的に声を上げていかなければいけないということを学んだ。 新聞を読んで「あ~こわっ」と思うだけではダメなんだなと思った。 のほほんと生活しているだけでなく、やるべきことをやらないといけない。
20代の時イギリスに行っていたとき、自分の国のことをよく知らないことを痛感した。 家族や友だちと政治の話しができるような国になればいいのにと思う。夫婦で選挙に行っても誰に投票したのか言っちゃいけない、みたいな雰囲気があるのがおかしいと思う。

§ 岡山のいいところ

自分の両親は二人とも東京出身なので、田舎がなかった。 子どもが育つには自然があるところがいいと思うので、その点、岡山で子育てできたことはよかった。 岡山は、人も優しいし、気候もいいし、食べ物もおいしい。 やりがいのある仕事があって生活の基盤があれば、住みやすい場所だと思う。

(2016.11.17 高橋・木島)