何かうまくいく予感がしていた

【名前】田代光一(50) 直美(49)
【同居している家族】笑子(小1)
【3.11後の避難の経緯】 東京都世田谷区→長野(2011.8一時保養)→鹿児島、宮崎(2011.9一時保養)→長崎(2011.12、2012、2013一時保養)→岡山市(2014.3)

§ 避難を決めた理由

汚染と子どもの健康のこと。
とにかく子どものため、不安のない環境で過ごすこと。
小枝、木の葉、土、水たまり、触るなと怒らなくていい環境で育って欲しい。
蛇口をひねって出て来る水が飲めること

§ これまでをふりかえって

情報を集めて、子どもとうちの嫁の荷物を準備していつでも動けるようにしていた。 武田邦彦先生のブログを見つけ、この先生の言うことにかけてみようと僕が判断して、1週間様子を見ていたがとどまることにした。
外出はしない、目張りをする。子どもは外に出さない。食材水にはこのころから気を付けていた。 子どもはまだ1歳で外出の必要がないのと嫁は仕事もしていなかったので、このような生活が成り立っていた。

【光一さん】(以下/光一)自分は自営をしていて介護タクシーの仕事があったので、仕事は続けていたが心ここにあらずのような気分で過ごしていた。夏までこのような生活が続いた。

■8月に保養に出かけたいなと長野にキャンプに行った。
■9,10月には、母の実家がある鹿児島、叔父がいる宮崎に保養に出かけた。
■12月長崎に移住した人たちが、始めた保養に10日間参加した。
 -2012年2月8月と3回くらい2013年にも3回くらい母子で行っていた。
 -長崎に移住しようかと思ったが縁がなかったのかな。
■そのころ岡山の移住相談会(2013.5月新橋)に行った。

岡山は全く知らなかった。場所すらわからなかった。岡山???な感じだった。
移住相談会に行って情報を得て調べたら、避難者が多いなどいろんなことが分かり、岡山に行ってみようとなった。

【光一】 嫁は保養先の長崎から、僕は東京からと、岡山で合流。宿をとって、仕事を決めようと介護の仕事をしてる人に会う段取りをして来てみた。2013夏だった。
その後10月に岡山市のお試し住宅の応募があったので、それに申し込んだがはずれてしまった。だが、何かうまくいく予感がしていた。
12月に岡山市から電話があって当選した人が2組も辞退して、順番が回ってきたがどうするかとの連絡だった。その電話でお試し住宅を使うことを決めた。相談、準備などをする時間はもらって、3月になってお試し住宅に入居となった。半年の期限付きなので、そのまま移住か東京に戻るのか思案しながらのお試し住宅だった。 2014.3月最低限の荷物を車に積んでの岡山だった。半年先の予定は全くない。

【光一】嫁は仕事を探しても仕事も決まらない。 期限はあるし、介護タクシーの仕事は、減ってくるものの続けていた。 岡山に来て1か月過ぎても何も決まらず、このままでは半年先でも何も決まらないのかと焦っていた。一人残っている東京での生活、食べ物・水・帰宅時には玄関での着替えと3年間続けている生活にも窮屈さを感じていた。
このままでは僕が動かなければならないかなあと思っていた。介護タクシーの仕事も辞めたくはないし、最善の方法を考えるが、見つからない。そんな時、嫁から「岡山に来て」と電話が!
「岡山に行けば今の収入はなくなるよ、仕事も何があるかわからないし、僕は働かないかもしれない。」と電話で話した。

【直美さん】(以下/直美) 「それでもいいから、岡山に来て欲しい。」 介護の仕事は夜勤があるので、子どもを一人で置いてはいけないし、託児がある職場も夜勤の時間には託児はない。 提示される条件が母子での生活では無理があった。 仕事の面接に行くと、「子どもはおばあちゃんに見てもらったら」「車は必要でしょう。自転車を用意したら」と言われ避難者で頼るものが何もないことを話しても仕事がなかなか決まらなかった。 親子3人なら、何とかなるのではないかと考え、岡山に来てもらうことがベストではないかと主人に話した。

【光一】 自営で一から始めた介護タクシーの仕事もすぐにはやめれないし、しばらくは仕事をしないことを条件で岡山に来ることにした。 介護タクシーをやめることにして、役所、同業者、お客さんに挨拶に2週間かけて回った。 自分で運転する車に荷物を積んで岡山に引っ越した。

僕が岡山に来ることを決めると嫁の介護の仕事がパートだが案外いい条件で決まった。
僕は6月から運送屋での週3日の仕事を始めた。小学校の用務員の仕事に心を惹かれ登録していた。 7月からその仕事の空きがあり、用務員の仕事を始めることになった。 臨時雇用なのでいつ終わるかわからない仕事だけどいまだにその仕事をしている。

水や食材などに気をつける生活、岡山への避難、息継ぎなしでクロールをしているようだった。 時間が動かなかった。岡山に来て時間が動き出した気がした。その場で足踏みをしていたよう、時間の感覚がやっと戻ってきた感じ。
岡山への避難は、いろんなことでラッキーだった。何とかなる感じがした。ツイていた。

§ 今、大切にしていること

いろんなことを壊してきたから、もう一回積みなおしをしている。

【直美】 私はどこで暮らしても、浅く根を張って暮らしても、家族の暮らしを大切にしたい。

【光一】 僕も都内で引っ越しを繰り返していたので、暮らす場所はそれほど気にならないが、親が東京なのでそこは気になる。 孫の顔も見せてやりたいし。

§ 3.11を経験して、気づいたことや学んだこと

普通がどうゆうことか、いろんなことを学んだ気がした。 互いに理解しているものだと思っていた親と、全く理解できないこともあるんだなと。いまだにうちの母はぴんと来ていない。 あの事故で世の中がひっくり返ると思ったのに、何も変わらなかった。

§ 岡山はいかがですか?

岡山に来てる感が抜けない。
まだ、旅行をしている感覚。避難してくる時が継続中で、元の生活を取り戻そうと一生懸命。
今の家から新幹線が見えるけど、どこかに行くための乗り物ではなく東京に帰るために乗るもののような気がしてならない。 旅気分が抜けないながらも、岡山に馴染みたいとおもっている。

【光一】お世話になってるいるので、安心できる場所、東京からの距離的なものがまず許せる程度。

【直美】 私は、仕事が決まったので、避難者であることも話しているし岡山弁も仕事がら覚えたし、家族の中では一番なじんでる。 去年の冬、奥大山のスキー場に行きました。雪が少なく子どもが遊ぶにはちょうどよかった。

【光一】 両親の金婚式に湯郷に行った。弟が企画してホテルに泊まってゆっくり。 ぶどうが美味しい。ピオーネよりマスカット、シャインマスカット、瀬戸ジャイアンツ、剥かずに食べれるのがすごくいい。 蕎麦屋がないに等しい、うどん屋ばかりだが関東のうどんと違いうまい。

(2016.9.18 宮岡・高橋)