笑いあえる未来へ

【名前】 芦川雄一郎(41)
【同居の家族】妻、子ども2人(11,5)
【3.11後の避難の経緯】福島市(震災時)→千葉県→大阪府→群馬県(2011.5)→岡山市(2012.3)

§ 色々な思いを削ぎ落としての避難

自給的生活をしながら農産物の販売も行っていた私たちは、福島から群馬、そして岡山へと移り住むまでの1年間、 どこで何をして生きてゆくのかをずっと考えていました。
「私たちの住むところは安全なのか?私たちの作る野菜は安全なのか?」と。
初期の福島からの避難、群馬への移住は、確かな情報も知識もないなかでの選択でした。 友人が避難すると言いますが、その根拠を問う余裕はありません。 原発や放射性物質について学ぶ時間もありません。 その中で想像できる限りの「もしも…」を検討し、家族の命をまず守ると決めての行動が避難であり、また移住でありました。

私たちは短時間で決断してきたと思います。次に挙げる要因が欠けていれば、もっと慎重な、様子を見た、時間をかけた選択をしていたでしょう。
 1)5才の子どもがいた、胎児もいた(妊娠中であった)。
 2)きれいな環境からの産物(卵や野菜)が健康にも良いと考え、人に販売もしていた。
 3)私たちは関東の出身で、家や農地が借り物であった。

我が家に地震の大きな被害はありませんでした。
-友人の情報を元に避難を決断
-3月13日に福島から千葉へ(人だけ移動)
-福島に戻り鶏の世話をしペットの犬2匹猫4匹を連れてくる
-長野や静岡の地震の後、大阪の親類のもとで2週間
-5月に群馬に移住、1年暮らす
-2012年3月末より岡山県岡山市に転居
現在、当地にて農業を営んでいます。

後悔しない道を選ぶ、そう行動してきました。
特に地震後の3年間ほどはただ前を向いてまっすぐにがむしゃらに生きてきたような気がしています。 芯の部分は守り通したといいますか譲らずに携えてきたと思っています。 ただ、優劣つける気はないのですが、指の間をすり抜けて言ったもの、大事にし損ねてきたものがあるような気がしています。 それが何かはわかりませんが、ようやく振り返ったりする余裕が出来ました。

§ 5年ぶりの福島

この冬、5年ぶりに福島を訪ねました。放射性物質についての認識に各々に違いはあれど、皆今を懸命に生きておられましたし、何より僕は皆の笑顔に迎えてもらうことができました。この6年の経過の中で今たどり着いたのは、放射性物質の濃淡だけが人の人生を左右するのではないということです。
僕が今望む形は、不十分でも放射性物質についてわかっているだけの情報が共有され、その上で各人の選択が尊重されるといったものです。
公的機関やメディアの現状は被爆のリスクが軽くみつもられているとおもいます。ただそうした自分の考えを示す際、裁判の場や政治に対して物言う時と、身近な方々と語らう時では、示し方が違う方が良いこともあるのだろうと思っています。
そして今足りないのは、時に歯に衣着せてしか語り合えない、身近な意見の異なる方との語らいなのではと思っています。

§ 震災で気づいたこと

人は幾つになっても学べるということ。知らないこと、間違うことは恥ずかしいことでなく、ときに謝りながら糧にしてゆければよいと思うようになったこと。私が自身の生活や夢を追うだけでなく、自分の子も含めた次やその次の世代に何かを残し、また何かは託し、何かを伝えるような年頃の存在になったと感じるようになったこと。その前段としては先の世代から学び伝えられなくてはいけないとも思っています。

§ 私にとっての岡山

毎度そっけない回答をしてしまうのですが、岡山ゆえどうだということはあまり思いません。どこであれ住めば都、隣人が友人。ですが岡山生活ももう5年、この地に多くの友人が出来、その関係は年々深まっていると、だんだん皆と仲良くなれてきていると感じています。僕にとって岡山は、暑く乾いた夏も印象深いですが、福島でそうであったように、今付き合いのある方々の顔が、岡山です。

(本人記述 2017.1.30)