【名前】匿名(30代)
【同居している家族】家族4人
【3.11後の避難の経緯】福島県中通り→岡山市(2011年9月)
【同居している家族】家族4人
【3.11後の避難の経緯】福島県中通り→岡山市(2011年9月)
§ 我慢の限界
震災後6月頃には我慢の限界だった。
洗濯物を外に干せない、幼い子どもたちを外で遊ばせられない・触らせられない、ガラスバッジや甲状腺検査、水を汲みに行く毎日。
横には飯館の山が見え、自分より遠い土地の人たちも次々と避難していっていた。
日中は仕事、夜は夫婦で話し合っても話し合っても答えが決まらず、とても疲れていた。
夫は原発から離れることには賛成だったけれど、親やまわりには理解してもらえなかった。
岡山は、福島に帰りやすい距離かと思い避難してきた。
§ 世の中の流れに自分がおいていかれる孤立感
岡山に来てからは地獄だった。
知り合いは誰もおらず、良かれと思ってきた岡山が悪い場所になっていった。
福島を離れたのは後悔していないけれど、来たことを後悔し、地元の人たちにもなかなか理解してもらえずつらかった。 昨年までは、震災のことを話もしたくないし、思い出したくもなかった。 オリンピックや「復興」と聞くと腹立たしくて、世の中の流れに自分がおいていかれる孤立感で、胸が痛くなる。 まわりが前に進もうとしているのを見る度につらくて、心がついていかないしんどさは今でもある。 |
§ 家族の永住地になるはずだった
震災の1年前。家族の永住地にしようと、福島で両実家の間に住まいを持った。
どちらの親の面倒も見られ、両親も大好きな孫に会いにきてくれる、生活の便利もよい場所。
いずれここでマイホームを建て、家族のストーリーがはじまると思っていたので、とてもショックだった。
昨年は住宅支援の終了により、岡山に住むか福島に戻るかの決断を迫られ迷った。
子どもが「友だちがいなくなったら困る」と本気泣きして、岡山の学区内に決めることができた。
子どもが元気に成長してくれているので、それだけが励みになっている。
§ 原発事故が収束しない限り
福島にいる両親からは、年々「あきらめられてきた」と感じている。
子どもの学校もあるから「岡山にいたら」と言われるけれど、岡山住みを認めたのではなく、
「福島はもう問題ない」と、本当は近くに帰ってきてほしいのだろう。
戻れるなら帰りたいけど、原発事故が収束しない限りはまた同じことが起こる。
いまの福島の状況は、まだ帰る時ではないと思う。
ただこの5年、帰省するのに交通費が圧迫し、生活費がどんどんきつくなるのが悩み。
§ あたりまえの幸せ
「あんな事故さえなければ・・」という怒りは今でもある。 震災前、両親も友だちも近くにいるのは当たり前だったけれど、いま、それがとても幸せだったことに気づいた。 ずっと「どうして私は岡山にいるんだろう」と思っていた。自分が今ここにいる意味をみつけたい。そして「今は岡山でもがんばっているよ」「子どもの成長と一緒にこんなことができるようになったよ」と、両親に伝えられるような生活したいと思う。 |
(2016.11.4 飯塚・宮岡)