毎日をゆっくり丁寧に

【名前】下山田桂(45)
【同居している家族】夫(51),長女(16),長男(10)
【3.11後の避難の経路】千葉県いすみ市(震災時)→神奈川県(2011.3.12)→愛知県(3.13)→兵庫県(3.14)→島根県(3.15)→千葉県いすみ市(3.28)→岡山県津山市(7.2)→岡山市(2012.3)→同市で転居(2015.4)

§ 迷わず決めた避難

夫は実家が茨城県東海原発の30km圏内にあり、チェルノブイリ原発事故後に放射能の危険性を認識し、反原発運動に関わるようになった。 私も大学生の頃に、チェルノブイリ支援団体のお手伝いで新聞記事の翻訳などをしていた。
東京で結婚後、子育てを田舎でしようと移住先を探した際には、各原発からの距離と風向きを考えて、万が一原発事故があった場合でも、最も汚染が少ないと想定されるエリアを関東圏で選んで引越した。 原発事故の発生時には政府が詳しい情報を決して出さないことを知っていたので、迷わず緊急避難を決めた。

§ 高速を西へ西へ

3月11日は本震後も、大きな余震のために頻繁に揺れていた。 電車とバスで小学校に通っていた娘は、学校から帰宅できなかったため友人宅に預かってもらい、3月12日の午前2時頃に車で迎えに行った。 友人宅に集まった他の家族と一緒にインターネットニュースを見ていて、原子炉の冷却ができなくなったことを知り、東京の職場にいる夫に相談したところ、「避難したほうがいい」と言われた。
翌朝、東京湾のアクアラインを千葉県木更津市から川崎へ渡り、夫と合流。 12日夜は友人のご主人の実家に泊めてもらった。 翌13日朝、友人一家と一緒にミニバンで西へ向かい、13日は愛知県の友人宅、14日は兵庫県の友人の実家に泊めてもらった。 関東から逃げる人はまだ少なかったのか、予想に反して高速道路はガラガラだった。

§ 松江での共同生活

15日、岡山で友人親子と別れ、以前夫が仕事で定期的に通っていた島根県松江市に向かい、知人の実家で元女子短大の寮をやっていた元気な老夫人のところに、9日間泊めてもらった。
千葉で8年間ホストをしていたWWOOF(ウーフ。有機農家で農作業を手伝いながら無料で宿泊するシステム)のメンバーが、「いっしょに避難したい」と合流したり、義妹とその子ども2人が加わったりして、松江では9人+飼いネコの共同生活をした。 毎夜インターネットカフェに通いながら、仕事を続けていた。

§ いったん千葉に戻る

その後、3月末に千葉県の自宅にいったん戻った。 上の子はホームスクーリングをして、子どもたちはほとんどの時間を室内で過ごした。 下の子どもは敏感な体質で、頻繁に鼻血を出し、他の家族も咳や鼻づまり、傷が治りにくい(蚊に刺された痕が化膿する)などの症状が出た。 私も、たわわに実った庭のスモモを、「少しくらいなら大丈夫かな・・・?」と思って食べ、ひどい下痢をした。
子育てをともにしてきた自主保育やシュタイナー学校の仲間とは、生活上の考え方を共有していると思っていたが、放射能についての考え方は人によって大きく違っていた。 近所でも福島からの避難者を受け入れる活動が始まり、とても複雑な気持ちの中、移住の準備をしつつ、他県や海外に移住する仲間を見送った。

§ 岡山に引越し、義父を看取る

2011年7月初旬に、9年半暮らした家と、自然農を実践していた田畑を大家さんに返し、最低限の物だけ持って、母子で岡山県津山市に疎開した。 最初の2か月は友人家族が避難してきており、多いときは11人+飼いネコの共同生活だった。 その後、岡山市建部町に転居し、2年間は友人家族と家をシェアしていた。 夫は東京の仕事場に寝泊まりしていたが、2012年いっぱいで東京の仕事場を閉じて、2013年1月に合流した。
その数か月後、茨城県に住んでいた夫の父が末期ガンであることがわかり、岡山に引き取って、亡くなるまで在宅介護した。 人間ドックの前日までゴルフをしていたほど元気だったのに、検査を受けてから坂道を転げ落ちるように容体が悪化し、約1か月半で帰らぬ人となった。

§ 毎日をゆっくり丁寧に

今は家族との関係を大切にしている。 3.11前はずっと仕事が忙しく、食事の時間以外はほとんど子どもたちを、同居のウーファーさん(ウーフのおねえさん・おにいさん)たちに任せていたが、3.11後は家族の関係が密になった。 避難して最初の2年は子どもとじっくりつきあい、その後の2年は夫との関係を修復してきた。
3.11後は、毎日の重みが変わった。 「こなしていた」のが、「ゆっくり丁寧にする」ようになったと感じる。
また事故前は、自然志向の生活をしている人と主につきあっていて、「わたしたちだけで自然に即した生活をしていればいい」という感じだったが、3.11後は社会への目が広がった。以前は社会的なことに興味がない人の考えが理解できなかったが、今は他人の価値観に興味を持てるようになった。

§ 岡山に来てよかった

岡山の方は「自分と違うことに慣れていないんだな」と感じることもあるが、(陸上自衛隊の駐屯地がある県北の)津山市日本原に住んでいたときは、人の入れ替わりが多いためか、他からやってきた人に対してウェルカムな雰囲気だった。 また、「岡山は暖かい」という印象を持っていたが、県北や県央の中山間地はとてもとても寒いということが、住んでみてわかった。
一方で、関東と共通点もある。 私の実家は山梨県だが、岡山にも同じくモモ、ブドウ、スモモがある。 山や川もあって親しめる。 人間関係にも違和感はない。 岡山に来て本当によかったと思っている。

(2017.1.18 仙田・宮岡)