闘病・移住・そして生活再建奮闘中

【名前】橋本志子(47)
【同居している家族】ひとり暮らし
【3.11後の避難の経緯】千葉県松戸市→岡山市(2014.3)

§ 避難を決めた理由

心細さや不安。住んでいた団地に、福島からの一次避難の方がおられ、(千葉に住む私たちが)放射能の話をすることや、不安等、団地内で言えない雰囲気でした。
避難先は、一度でも住んだことがあること、地震・放射能・仕事・病院を考えて、岡山に決めました。看護学生時代に住んだことがあり、持病の治療をできる病院もあります。

§ これまでをふりかえって(震災前)

医療技術を身につけ、JICA(国際協力機構)で海外で働くのが夢でした。 岡山の准看学校を卒業して医療の世界へ。 しかし、姫路循環器病センターで看護婦をしていた24才の時、自分がバセドウ病と肝機能障害を発症しました。
自分が看護を受ける側になって、医療における人間対人間の関係の必要性を感じたものの、資格ごとに法律や制度的な制限があるために、その後に養護教諭の資格を取得、目標であった助産師と保健師の学校に入学するため受検勉強を続けました。 実習や勤務、予備校などの関係で、中国から関東の間を10回転居。東京で非常勤の養護教諭として働いていた30才のとき、バセドウ病が再発しました。

内服治療していましたがホルモン値が安定せず、31才の時静養のため実家へ戻りました。 兵庫の病院へは交通の便が悪く、医療方針も違っていました。 そのため、実家に戻っても、姫路からの深夜バスに乗って、渋谷の伊藤病院と眼科の原宿オリンピア病院にかかり続けました。
実家で過ごした約10年は大変な出来事の連続でした。

まず、父がスキルス胃癌ステージⅣで入院し、約2年の癌闘病ののち看取りました。
35才の時、「バセドウ病」を再発しました。唯一の選択肢はアイソトープ治療。 その後、甲状腺中毒を起こし、生死をさ迷いました。更に、「バセドウ眼症」も発症し、失明の危機に。 リニアック(放射線)治療を受けました。バセドウは甲状腺の病気ですが、全国的に甲状腺専門医と専門医療機関はとても少ない。甲状腺専門眼科も少なく、リニアックをオーダーできる専門医はわずかです。また、病院により治療法や治療方針に違いがあるため、望む治療法を受けられる病院は極めて少ないというのが日本の実情です。
40才の時に母が骨髄異形性症候群で緊急入院、白血病に急性転化しました。血液内科のある病院に転院したくとも、緊急入院でないと紹介状を書いてもらえないなど多くの苦労を味わいました。翌年母が亡くなり、母の葬儀や永代供養、遺品整理などの全てを1人で行い、心身ともに疲弊。 母の死から3か月後の2010年9月、伊藤病院に通うため千葉県松戸市に転居しました。

§ これまでをふりかえって(震災後)

松戸で体調を整え、生活を立ち上げるつもりでいましたが、全く落ち着けない中で迎えた大震災。続く余震や計画停電、スーパーから品物がなくなる様子に怯え、部屋も余震に備え床に平置きした本などの、散らかった感がしんどかったです。
松戸はホットスポットでした。隣接する金町浄水場から放射能が検出されたと報道され、 団地内の北西部や近くの公園の水たまりや道の側溝からも放射能が検出されました。
4月、息苦しくなり、血圧・脈拍とも異常値となり、救急車を呼ぶ事態に。どかに引っ越したかったが、不眠症の改善や体力をつけることが優先でした。

 2013年7月、40℃の発熱、口内炎8コ、動けない。脈もおかしい。血圧が明らかに異常。循環器内科で、僧帽弁閉鎖不全症(心臓弁の疾患)との診断。自分にとって一番理想的な手術ができる病院を探したところ、関東では大学病院と府中の榊原病院のみだということがわかりました。
以前から岡山の循環器医療の榊原病院を知っていたので、岡山市の移住定住支援室から冊子を送ってもらうと、関東からの移住者が多いということがわかりました。何より、岡山には昔住んだことがある。
父母が病気になってからの一連のことと、自分の病気でエネルギーを消耗していて、長い時間がかかりましたが、311から3年後に岡山に移住しました。
私の松戸での暮らしは、孤独で、こわくて、しんどくて、嫌な生活。一人で生きていく覚悟を明確にさせられた場所でした。

§ 病気を抱えながら1人で生活を立ち上げる困難さ

岡山に移住したものの、病気を抱えながら1人暮らしは苦難の連続です。
借家だった実家を片付け、お墓も永代供養をしてもらったので、帰る場所がありません。母の死後、頼れる親戚もなくなりました。働けなくなれば即生活保護になってしまいます。

行政や福祉、様々な支援(生活困窮者支援や就労支援など)にずいぶんお世話になりましたが、不安や辛い気持ちに寄り添ってくれるような支援というのはなかなか受けられない。「自分の身は自分で守るしかないのだ。」と実感しています。
日々の生活費の心配や孤立感がぬぐえず、精神的に追い込まれることも多かった。 何のために生きているのか?居なくても大丈夫な存在なんだろうか? 人との心の通った関わりや、生きる希望~誰かの役に立てているという感覚~が欲しい。
「ここで老後を」という覚悟。どこで死ぬ?誰に看取られる?誰かに委ねるという覚悟も一歩ずつ。 やっと、ちょっと肩の力が抜けて、どうにかなるかも?と思えるようになってきました。

§ だから私は看護の仕事に戻った

支援の方からは、職探しにあたり、「(看護の)資格を生かさなくてもいいのではないか?」 と言われることもありました。
しかし、私は看護、福祉を提供する側から受ける側になり、患者さんの苦しみや患者家族の大変さ、看護師を求めていること、医療難民の現状などを目の当たりにしてきました。
また、「この一年、振り返れば、痒い所に手が届く、気配り心配り。これ以上の介護はないと思うほど、一生懸命してくれた。悔いは残るかもしれないけれど、十分以上の幸せをもらったから、これ以上は望みません」という母の最期の手紙も支えになっています。
だからこそ、岡山で看護の仕事に戻りました。
ブランクに加え、「短時間勤務から始める」という難しい条件のため、職場探しは大変でした。 バセドウ病で体力的に週4日のパートが精一杯であることが理解してもらえず、やむなく辞めた診療所もありましたが、今いい職場で働かせていただけているので、努力をしていかないといけないなと思っています。

§ いま大切にしていること

今は、その時その時で「今、やること。やるべきこと」をひとつ1つ、課題をみつけて取り組んでいます。そして、マイペースを探しています。

10年後、5年後に「あーなっていたい。」をあまり考えないで、1か月後にも同じように、寝込まないで、たおれないで、生活し、仕事に行け、少し遊びにも行けるように、一日一日を生きる。明日も、今日と同じように生活できるように、今日を生 きるように!!
■少しだけ、父、母が生活の中で大切にしていたことや物がわかるようになり、少しだけ丁寧に生きる。食事も、少しだけ丁寧に「だし」をとることやお茶を淹れる。おそうじも丁寧に!!人との関わりも・・・。
■四季を感じること
■ウソをつかないこと
■感謝すること
■みかえりをもとめない

§ 災害を通して気付いたこと

 (15才で山崎地震。16才でチェルノブイリ。26才で阪神淡路大震災。)
阪神淡路大震災では、ボランティアやPTSDのこと、クラッシュ症候群やトリアージ等多くを学びました。 TV報道と実際に見聞きする情報に大きな隔たりがあることに気づき、報道のこわさと、信じられないナという思い。 視野を広くもつことのしんどさ。
子ども未来さんや東山つながりキッチンなど、人とのつながりを感じられることのうれしさ。 ひとつひとつの出会いやつながりが貴重で、交流がかけがえのないもの。コミュニティの大切さ。

§ 岡山はいかがですか?

19、20才の頃、岡山弁がキライでこわかったです。 今回、岡山弁はあまり耳にしなくて、耳障りではないです。
平地なので、自転車生活でも住みやすいし、自転車で受診できる医療機関があるというのは、とても安心感があります。

(2016.12.23 木島・宮岡)