地に足をつけた暮らしを和気町で

【名前】吉永由加里(49)
【同居している家族】夫(57),子ども(小5,小2)
【311後の避難の経緯】東京都大田区→大阪へ一時避難(2011年3月15日~3月末)→徳島、岡山へ保養(2012年夏)→和気(岡山)へ下見(9月)・母子で移住(10月)→夫が合流(2016年3月)

§ 新幹線に飛び乗り大阪へ

311時は、長男が1歳半のときから住んでいた東京都大田区にいた。自分の実家は目黒、夫の実家は大阪。当時2歳だった次男は311の揺れを怖がり、以後ぶら下がる照明が揺れるのを見ては怖がった。
翌日、夫から、当時空き家になっていた夫の実家のカギを渡され、いつ行ってもいいよと言われた。 揺れだけなら耐えられたが、3月15日になって福島原発の3号機が爆発する映像を見て、子どもを連れて新幹線に飛び乗った。 空き家にすぐに住むのは無理だろうと、大阪の友人が2泊させてくれた。その後3月末まで大阪にいた。

§ 東京での生活

4月になり、東京に戻って子どもは幼稚園生活が始まった。 園長がチェルノブイリ原発事故に詳しい人で、311後は休園になり、その間に園庭の土を入れ替えていた。 夏には外壁を塗り替え、焼き芋は鹿児島からサツマイモを、奈良から枯葉を取り寄せるという対策ぶりで、安心して子どもを園に通わせることができた。
次男は9月ごろ、脱力・意識がない・低血糖の症状が出たが、処置して直ぐに元気になった。 それから半年後に、再び同じ症状が表れ、甲状腺機能低下症と診断された。

§ 移住先を決めるまで

2012年の夏、食糧自給率の高い県がいいだろうと考えた結果、徳島と岡山県和気町に保養に出ることにした。 和気町の「やすらぎの泉」には10日間滞在した。 「やすらぎの泉」は、2011年7月のオープン以来、不安を抱えたお母さん達が滞在し、想いを共有する場となっていて、延藤さんご夫妻の優しさに支えられながら和気での移住生活を決めた母子がたくさんいる。 自分もその一人だ。 和気には、生活に必要なことは自転車で行ける範囲で事が足りるという暮らしやすさがあり、実家へ帰るのも岡山から新幹線で帰れる、という距離感も気に入った。

§ 怯えながら暮らすよりも避難を

再び東京に帰り、生活が始まった。 夏休み明けに長男が登校を始めてから三日三晩続けて鼻血を出した。 このことが、もしかしたら・・・と怯えながら暮らすよりも、避難しようと決めるきっかけになった。 9月の連休中に再度、夫と和気へ向かい、アパートを探したり、子どもの登校斑の様子を見たりし、10月には母子だけで和気へ引越した。

§ 和気での生活

移住して約半年後、次男の甲状腺の数値は正常に戻り、以来元気に過ごしている。 初めの1年2ヶ月はアパートに住み、2013年12月には縁あって家を購入することができた。 和気町の移住定住アドバイザーとしての活動や、2015年の春からは米作りも始め、とても充実した生活を送っていた。 和気に引越してからは母子での生活だったが、今振り返るとそれがすごく楽しかった。
2016年3月に夫が前職を早期退職し、和気での生活に加わった。 その後、長男が体調を崩し、医者からは「大きな環境の変化は?」と聞かれるが、夫との同居しか理由が考えられないでいる。 自分も、母子での気楽な暮らしから、夫が加わり4人での暮らしに戻ることで、今まで感じていなかったストレスもあり、離れていた家族が再び一緒に暮らすことの難しさも感じている。

§ 今、大切にしていること

311を経験して、大事にしたいものが変わった。 水、空気、土地が大切だということ、そして、生きる知恵を子どもに伝えていきたいと思っている。
和気で暮らし始めてまもなく5年がたつ。 米、椎茸の栽培をしながら、味噌を作り、梅干し・らっきょうを漬ける日常・・・東京では想像できなかった暮らしだ。 家では井戸水が使え、庭には、みかん・ビワ・苺・柿・金柑・いちじく等の果物がなる。
ここには地域や移住者のコミュニティーがあり、もしライフラインが断絶しても暮らしていけるという安心感がある。 地面にしっかり足をつけた暮らしを大切にしながら、和気町の移住定住アドバイザーとして、これから移住を考えるご家族のお手伝いができれば、と思っている。

(2016.12.9 高橋・飯塚)